私とこども

アラフォー。日々の出来事を綴ります。

買い物と疲れ

昨日の夕方、食材を買いにお店へ行った。

明るい照明、輝く床、賑やかな音楽、多数の人。病院での静寂な入院生活とは対照的でそれだけで疲れてしまった。冷蔵庫が空っぽなので、あれこれ買ったら5000円弱使った。娘が好きな生ハムとブロッコリースプラウト巻を作るため、生ハムは購入したのに、ブロッコリースプラウトを忘れたりした。ボケボケしながら、人ゴミのなかをカートを押して買い物するだけで精一杯だったらしい…と帰宅後気づく。

夕ご飯の鶏の照り焼きを作りながら、1人であることが突然辛くなる。離婚後14年経った。強くもなったし、結局1人でいることが一番、リラックスを自分にもたらせてくれる。支えてくれる人もいる。入院しているときはお見舞いにも来てくれた。しかし突然、心底1人なのだとよく痛感する。それを昇華するために、支えてくれる人に鶏の照り焼きの過程を写真で送る。自分の生活を見守ってくれる人、それを受け止めてくれる人がいる。それだけで何かが和らぐことを知る。「疲れた…」その一言を送っただけで、照り焼きに添える温野菜を作る気になるのだから、我ながら単純でよかったと思う。

汁物は既製品に頼ったが、娘からはまずいと言われてしまった。お味噌汁とご飯とおかず一品あれば、とりあえず何とかなると小さい頃の娘を前にしてよく思ったものだ。それは13年経った今も継続しているが、お味噌汁だけは手を抜いちゃいかん・・・と我が教訓(もはや家訓になりつつある)となっているのに、分かっていながら既製品に頼った自分に対して、何故か損をした気分になった。既製品も高かろうに…その値段で美味しいお味噌汁が作れただろうに。その過程へ移行できなったそれが、食卓に上がった「まずい」に集約されているような気がした。私が疲れていることを知っているお味噌汁好きな娘は、それでも食べていたが、ひとつの既製品を二人で半分こして食べている私も、それは口に合うものではなかった。二人とも具材だけ少し食べて、汁は飲まなかった。